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-この本を作るきっかけは。
出版社が企画しました。南先生は現代の人々に語りかけ、私もそうですので、対談してみたいと思っていました。南先生は伝統的な日本の仏教というよりも新しい角度で仏教を見直している方ですので、テーラワーダ仏教と合わせてみたらどうなるかということに関心がありました。
-お話をされてどんな感想をお持ちになりましたでしょうか。
南先生は日本の仏教世界の問題点にほとんど気づいている方だなと思いました。ただ批判するだけでなく、その問題をどのように解決して前に進むかということを実践的されている方だという印象を受けました。
-日本の仏教と上座仏教の大きな違いは出家があるかないかというところだと伺っているんですが、スマナサーラさんはあった方がいいとお考えですか。
テーラワーダ仏教は自由な世界だから、形式的にこうでなければ、ああでなければということはないんです。出家というシステムはありますけど、出家というのは専門家の集団です。
現代社会は各分野の専門家で成り立っているでしょう。そうすると仏教も素人だけということはありえません。素人だけでは何もうまくいかないでしょう。
たとえば、素人に小説は書けません。小説を書くにはそれなりの訓練を受けて、修行をして、腕を磨かなければならないのと同じです。我々は自分の分野では専門的にやって、ほかの世界では素人で、それでお互い協力し合って助けられています。医学の場合も我々は完璧な素人で病気になったらお医者さんに頼む。しかし、お医者さんは医学のプロですけど、ほかのことについては素人ですからね。そういうことでも、お互いに助け合う社会だから出家というシステムもなくてはならないとは思います。
誰もが出家しなければならないということではなくて、プロフェショナルの組織としての出家集団が必要であると思います。だから出家集団は文字通りプロフェッショナルでなければなりません。出家をしているけど素人だというのは困ります。修行だけではなく、学ぶもこともあります。よく訓練して身につけて、素人の要求に応じるという。私が意図するのは仏教のプロフェッショナルとしての出家集団なんです。
-日本に入ってきた仏教には出家というシステムがない仏教が入ってきていたんでしょうか。
上座仏教のような出家とは違いますが、日本にもプロフェッショナルの集団はあります。出家とはプロの集団とすれば、日本に入った仏教にも同じプロの集団がありますし、仏教を学ぶ人々はプロとしてその研究に、その修行に一生を掛けて頑張っていますので、システムは似ていると思います。
日本の仏教の一つの問題がこの宗教は在家化する形で広めていることです。在家化するのであれば表面的には一般人に人気を得て広がるはずなんですけど、実態は閉鎖的な「カルト」というべき組織になってしまいがちです。さらに悪いことには日本では一般大衆の宗教の基本的なフォーマットとして、決まりきったカルト的な性格がなければならないことになっているのです。その性格とは、1)開祖とその家族を崇拝する縦関係の組織、2)先祖供養、3)商売繁盛、4)病気治し(ヒーリング)、5)題目・真言のような呪文を唱えること、などです。
新しい宗教が現れても、結局いま挙げたような同じパターン・同じフォーマットで団体ができちゃうんです。それで、在家宗教組織は、おしなべて日本的なカルトになってしまうんです。そして一般人も、宗教にはいま言ったカルトの基本がそろってないとだめだと思いこんでいる。
たとえば、日本食だったら味噌汁ですが、味噌汁の代わりにヨーロッパのスープが出できたらそれはと合わないんですよ。味噌汁と焼き魚とおしんこというのは日本食の決まりとして揃わなくちゃいけないのと同じ感じで、在家宗教組織というのはカルトで、一般人も宗教と言えばカルトだと思っています。でも、仏教がそれでは困るんです。
だから南さんのように、カルトではない、本当の仏教という教えをどうもっていけばいいかを考えているプロの存在が重要になるんです。
-今のお話は本の中でお話されていますか。
いないです。
-本の中のポイントは。
一般的にただお互いに話し合っただけだから、だた、気楽に読めば分かると思います。真剣に対立してということもなくてね。私にしても曹洞宗や禅宗が珍しいことでもなんでもないし、よく知っていますし、しきたり習慣が違うだけでそれもよく知っていますから。気楽に出家同士の対話として気楽に読めると思います。
仏教には宗派間の対立はそんなにないんです。違う宗派が二つあると、こちらは向こうのことを学びたいし向こうはこちらのことを学びたいと仏教の世界ではなるんです。あなた間違っている、ということにはならない。だから宗派間の対話というのは何のことなく進んでしまいますね。私も向こうがやっていることをいろいろ知りたくなってしまうし、向こうもこっちがやっていることをいろいろ知りたくなる。
この対談は仏教の基本的な大きい枠から見れば、どこでどうかみ合えるかどう違うかということを客観的にお互い話合ったという、まあ、普段はあまり見られない対話形式だと思います。
-好きな言葉がありましたらお教えください。
ないですね。残念ですけど、何かあったらいいな。これから考えなくちゃ(笑)。言葉じゃないんですよ、なんでもいいから自分がやることはしっかりやるんです。誰にも文句は言わせないんです。できないならば正直に、これはできないからと他人に頼むんです。自分がやることになったらしっかりやる。生き方ですから、言葉ではありません。我々はブッダの言葉で生きていますから。
-読者の方にメッセージをお願いします。
いつでも心を自由にして欲しいです。自分でものごとを考えて欲しいんです。世の中、よくしゃべる人々はいつでも聞く人々をマインドコントロールしたいと思っています。「だから、自分の話を聞け」と。私たちもしゃべる側にいるんだからとにかく納得させたい、説得したいという気持はあるかもしれません。ですから、たとえ私が書いた本を読んでも鵜呑みにして欲しくないんです。やはり人の心は自由で自分で判断するべきなんです。
何があったって自分で判断する能力があれば、楽に生きて行けますよ。だから、私たちは自由に物事を判断できるようにと能力を与えられているんです。私の話の中でどうして批判するかというと、その人に自分で考える能力を与えたいんですね。これが正しいんだから信じなさいというのはないんです。だから読者の方々さぼって読んでもいいんです。しかし、自分でちゃんと情報を把握して判断するということが大切で、これは誰にも任してはならない。自由になれということなんです。
-ありがとうございました。
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