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知の巨匠たち 上智大学 吉川元教授~『民族自決の果てに-マイノリティをめぐる国際安全保障』

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吉川 元 (きっかわ げん)

上智大学外国語学部国際関係副専攻教授。 専門は、国際関係論、ヨーロッパの安全保障。

広島県広島市生まれ。修道中学・高校を経て上智大学外国語学部ロシア語学科卒業後、一橋大学大学院法学研究科を修了。1995年一橋大学博士 (法学)。トロント大学留学。広島修道大学法学部講師・助教授・教授、神戸大学大学院法学研究科教授を経て、2007年から現職。
上智大学ホームページ  

『民族自決の果てに-マイノリティをめぐる国際安全保障』( 有信堂高文社 )を4月に上梓された上智大学外国語学部教授 吉川元先生にお話を伺いました。

-先生は学生の頃はロシア語を勉強されたそうですが。

 私は本の「あとがき」にも書きましたが昭和26年、広島生まれです。子供時分の、広島の大人の世界は、学校教育の場もそうでしたけど、よく言えばリベラル、悪く言えば反アメリカ、親ソ的でした。ですから核実験もソ連の核実験は平和目的で賛成、アメリカは帝国主義だから反対という時代でした。その辺でソ連はすごいものだ、アメリカはとんでもない国だと思いつつも、他方ではテレビの影響で、異なるアメリカ像を持つようになりました。当時、「コンバット」というTV番組がありまして、「スターリング、ビッグ・モロー アンド ディック・ジョンソン」という出だしで始まっていましたかね。あの番組を毎週見ていましたが、これは正義のアメリカ像なんですね。常に悪者ドイツを倒してね。アメリカが毎度ドイツに勝つからアメリカは正義の味方ですね。それから力道山でしょう。力道山のプロレス番組で、日本がアメリカに勝つわけです。これでしっかりナショナリズムを植え付けられたような気がします。高校生時代には、共産主義国家ソ連の影響も強かったと思います。1960年代の後半は、世界的に学園紛争が起きていた時代でして、若者はコミュニズムに社会的正義を見出し、淡い期待を抱いた時代でした。

-そうですよね。

 私が高校二年生のときは東大入試がなかった年ですが、日本中の大学が文字通り狭き門でした。なにせ大学正門がどこもかしこも封鎖されていましたから。だからあの頃の世代はみんなマルクス坊やですよ。共産主義にあこがれて、反体制的であることが若者の特権であると思うようになっていましたね。

当時、若者の間では、『朝日ジャーナル』が大人気でした。今から見ると小さな字で写真もないし絵もないし、つまらないとは思いながらも、あれを小脇に抱えて歩くのが若者のインテリであるという証で、皆、読みもしないのに『朝日ジャーナル』を持ち歩いていました。

 上智大学の外国語学部ロシア語学科に入ったんですが、入学の一番の動機は社会主義について勉強しよう、ソ連について勉強しようと思ったからです。世の中の変革に役立ちたいという気持がありましたから。しかし、それは裏切られたんです。ソ連の現実を知れば知るほど。

この本の中で岡田嘉子の話に触れていますが、あの頃、1972年だと思いますが、ソ連に亡命していた岡田嘉子が日本に帰ってきて、その後『悔いなき命を』(1973年)という自叙伝を著しました。岡田嘉子は、戦前の大女優で、彼女の帰国は、ソ連に亡命して、大成して凱旋帰国だったという雰囲気でした。ところが実はとんでもない自分史を偽った自叙伝であったということが亡くなった後に分かるんですけど、とにかく、まだまだソ連を憧憬のまなざしで見つめていた時代ですした。

あの頃、ソ連がおかしいという情報が少しずつ漏れ始めました。上智大学に当時、染谷茂先生というロシア語の大家がいらっしゃいました。染谷先生はハルピン学院の教授だったのですが、ロシア語ができたばかりに軍人とともにシベリアに通訳として抑留されました。染谷先生は後にノーベル文学賞作家アレクサンダー・ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』を翻訳されました。牢獄で大変つらい囚人の一日を描いた作品です。私たち学生は染谷先生が、ロシア語ができたがために苦労したという話しは噂で知っていました。染谷先生が授業中に「あー、俺、ロシア語をやっててよかったよ」と、ポツリとおっしゃって、その言葉の重みがね。ロシア語ができたがためにとんでもない人生になってしまったけれども、自分と同じ生活を描いた作品に出会い、あのイワン・デニーソヴィチの一日の生活が自分の体験と重なったんでしょうね。内心つらい日々を思い出しながら、翻訳されたのでしょう。それでポツリとあのひと言が。

学生の間で絶大の信頼と尊敬を集めていたその染谷先生が、ソ連はとんでもない国だとおっしゃるのです。それを聞いてから、ソ連と東ヨーロッパのイメージが変わり始めました。社会主義というのは進歩していると我々は聞かされ、信じていたわけですが、しかし、それは虚像であって、実はおかしなおかしな囚人監獄のような国だということが少しずつ分かってきました。

その後、大学院は一橋大学大学院の法学研究科国際関係論に進みました。ソ連と東ヨーロッパの関係が帝国主義的な支配-従属の関係であり、力ずくの関係なんだと、すでにそういう目で見ていました。裏切られたコミュニズムというものが私の研究の根にあって、そこから次第に反体制問題とか、人権問題とかマイノリティー問題に関心が移っていきました。私が最初に書いた本は『ソ連ブロックの崩壊』という本ですが、斜めからソ連・東ヨーロッパを見ていたからあのような本になったんです。

-先生の研究生活の中で今まで一番印象に残っているニュースというのは。

ゴルバチョフが二度目に来日したときに、彼は広島を訪問し、その際に、ゴルバチョフ、広島市長、それに私と三人でテレビ対談した時のことです。これは日本テレビ系列の広島テレビでも中継されました。先ほど申しました『ソ連ブロックの崩壊』が出た年です。1992年の夏でした。その半年前にソ連が崩壊していました。

国際政治の流れを大きく変えた人物に出会えたという興奮もあり、今でも控室で握手したときの緊張感と彼の笑顔、それにゴルバチョフの手の温もりは、私にはすばらしい思い出として残っています。その対談の中で、「あなたはどの時点でペレストロイカは失敗することになる、と気が付きましたか」と質問しましたら、その途端に彼の形相が変わり、顔が真っ赤になってそれは大変でしたよ。「ペレストロイカは、正しかった、正しかった」と言い張って。結局、テレビ対談は彼の興奮が治まらないために、司会者がすぐに機転をきかして市民対話ということで会場に集まっていた人たちに話を振りました。それくらいゴルバチョフの怒りはすごかったです。

その夜、ホテルで関係者主催の歓迎パーティの席上、ゴルバチョフの奥さんのライサさんが、「私の夫は、人はいいんだけど、昔から性格がまっすぐで、よく学者とぶつかってきました。」と私の席に謝りにきました。パーティの雰囲気が暗くて、ピリピリしていたからだと思います。というのも、ずっと私たちがにらみ合っていたからです。彼は彼で、私のことをとんでもないことを言う若者だと思っていたのでしょうね。

-それはおいくつぐらいのときですか。

 17年前のことなので40歳ですね。

-大抜擢ですね。ゴルバチョフの対談相手に選ばれたというのは。

 いやいや、私が広島在住の研究者であり、それに反ソ的というか、私がソ連の崩壊を予言していたからだと思います。日本で、ソ連の崩壊を予測していた人はそう多くはいませんでした。私は、1980年代半ばに、ある論文に、ポーランド、ハンガリーの順でソ連ブロックが崩壊するといったことを書きました。それから、 先ほど述べました 『ソ連ブロックの崩壊』という本の原稿では、それをソ連ブロックが崩壊する以前に書いていたんですけど、本が出たのがソ連の崩壊と同時でした。国民に支持されない東欧の社会主義体制を力ずくで支配しているソ連ブロックが長続きするわけがないと考えていました。

-ニュースというのでご自身の体験を伺いましたが、世間の皆さんがご存知のことでここで時代が変わったかなと思えるようなトピックというのはありますか。

 出来事としては1960年の「植民地独立付与宣言」という宣言ですね。あれは国連憲章と共に、国際政治上、大変重要な宣言文だと私は思います。なぜかというと、多くの人が第二次世界大戦後、国連の創設を契機に国際関係の仕組みが大きく変わったと思いがちです。しかし、国連は国際連盟の作り直しであって、基本的には国際関係の仕組みも、国際関係の思想も、そして欧州白人支配の国際社会の秩序も、引き継がれていると思いますよ。その一番の問題は人種問題です。つまり、国連の時代に入っても、植民地主義の問題は維持していたわけです。植民地主義問題というのは、人種差別の問題であって、正確に言うと人民の自決権という権利を否定するものです。それで、自決権がはじめて規定されるのが「植民地独立付与宣言」です。

19 世紀から白人がアジア・アフリカを植民地化して支配する、その流れが1960年まで続いていたわけです。1960年までは有色人種は白人より劣っていて、白人の支配の下にあるというものの考え方がずっと続いていました。そういう意味で、そのあと1965年に「人種差別撤廃条約」という条約が採択されますが、この条約も画期的な条約です。

昔は、国を一等国、二等国といったふうに、国までランク付けがありました。たとえば、日本も明治政府の文明開化というのは、ヨーロッパ文明に近づくこと、すなわち国をあげてヨーロッパ文明へ同化することが文明開化であったと思います。だから一生懸命ものまねしていたわけです。ところが、この「植民地独立付与宣言」をもって文明の優劣にかかわりなく、国家を認めるわけです。つまり、人種に優劣はないし、どのような人民であろうと国を持つ資格がある。教育の遅れとか、経済発展の遅れとか関係なしに、人民はだれでも国を持つ資格があるというルールを決めたのが1960年のあの宣言でした。という意味で、私は「植民地独立付与宣言」は大変重要な国際合意だと思います。

-自分が日本人であるという意識はほとんど自覚する機会がないのですが、民族意識とはどのようなものなんでしょうか。

 日本人ほど民族意識といおうか、国民的一体感を意識せずにいられる幸せな国民はいないと思いますよ。なぜかというと日常生活において異民族と接する機会が少ないからです。日本人には、言葉の違いも見た目の違いもないし、日本人はみんな日本語を話すし、同じ格好をしているし、それゆえに民族を意識する機会がないんです。

私はこの春、2月から3月にかけてナゴルノ・カラバフ共和国という地図帖には載っていない国に行きました。もともとアゼルバイジャンの中のアルメニア人自治州が独立を宣言したのですが、この国は国際的にはまったく承認されていません。

もともと、この自治州では少数派のアゼルバイジャン人と多数派のアルメニア人が共存していた州です。もっとも町や村によってそこに住む民族が異なりました。アゼルバイジャン人はトルコ系で、ロシア語とアゼルバイジャン語を話し、宗教は多くがイスラム教徒です。アルメニア人は、ロシア語とアルメニア語を話し、宗教はキリスト教徒です。異なる民族が隣村にいるわけで、日常的に彼等は接するわけです。

ナゴルノ・カラバフに限らず、東ヨーロッパやバルカンに行きますと、一つの国に言葉の違う二つの民族が、場合によっては三つの民族が、住んでいます。例えば、マケドニアでは、同じ村にあっても、マケドニア人地区、隣がアルバニア人地区といったふうに民族別の住み分けがある国がまだまだたくさんあります。異なる民族間の結婚は極めて例外的ですね。イスラム教徒とキリスト教の間の結婚はまずないですから。ですから、同じ国民といったって宗教も言語も違う民族が隣にいると違いを意識せざるを得ません。我々は日本人にはそういったことがないから実感がないんですよ。

-情報伝達というのはどんな状況なんでしょうか。中央集権的な放送局があって、マイナー言語でのテレビ、ラジオ放送というのはあるんですか。

 破綻国家でない限り、どの国にも、中央の放送局はあります。しかし、マイノリティ言語の放送は、多民族国家では珍しくありません。旧ソ連では、独自の民族政策に基づいて各共和国で、そこでの民族言語教育も、放送も、行っていました。

しかし、20世紀は、多数派民族の同化政策によるマイノリティ言語の抑圧、同化の世紀でもありました。同化が正式にヨーロッパで否定されるようになるのは1990年以降です。まだ日本を取り巻く周辺ではそういうルールはありませんが。同化というのはマイノリティの伝統的文化や言語を否定することを意味します。民族マイノリティのラジオ放送、新聞の復活は、おおむね1980年代の傾向です。それまでは、まさに同化の時代でした。

日本が台湾や朝鮮半島を植民地化したときは日本語を普及しました。日本の江戸時代を考えると農民の多くが、文字が読めなくても政治の安定には関係がなかったんですが、ところが、国が一つの国としてまとまり、国力を強化し、同時に政治に参加していくようになってくると、どうしても共通言語が必要になってきます。そういう流れが百数十年続くわけです。日本も朝鮮半島を支配したときは、創氏改名とか日本語の普及を図りました。支配領域に多数派の言語を広めていくというのは国を発展させるためには不可欠だと考えられていたからです。言語教育というのは隅々まで、それはマスメディアの発達以前の段階から共通の言葉を国中に広めていこうという動きがあったわけです。日本も沖縄を含めて日本語を強要していったわけです。

ロシアも同じですよね、周辺の民族をロシアの植民地にし、帝国の版図を広げていきました。イギリスもアイルランド、スコットランド、ウエールズを支配した。そのときに、例えばロシアはロシア語、イギリスは英語を普及させました。共通語政策に失敗したオーストリア・ハンガリー帝国は、20世紀初頭に分裂してしまいましたがね。

共通語(公用語)を普及させる動きはどの国にも共通しいます。理由は簡単で、君主制の国は政治参加がなかったでしょう。君主国が民主化していくと国民の政治への参加が始まり、一つの行政単位として統合せねばならず、それに産業革命以来、労働者としての国民を教育していかなければならない。そうすると公用語としての共通言語が必要になります。もうひとつマスメディアの発達とも関連しています。まず新聞が、言語を共有する人たちの間で広まり、次いで商業ラジオの普及です。ラジオ放送の開始は1920年代ですね。同じ国内にいても多数派の言葉が分からない人がいますが、ラジオ、テレビ、新聞の普及とともに、彼等もその国にいる以上は自主的にその言葉を習得していかないと支障をきたすことになります。そういうことで全国ネットのマスメディアのおかげで言語、共通語が普及していくということがありました。

-国の繁栄というお話があったんですが、そもそも住民の中に国という意識はあるんでしょうか。

 あるかないかというと、あると思いますが、程度の問題でしょう。これはソ連がなぜ崩壊したかという謎ときにもつながります。つまり、住民たちがソ連という国の「ソ連人」という意識が強かったならば、今みたいにばらばらにはならなかったのではないか。ところが自分たちはアルメニア人だとかウクライナ人だとかグルジア人だとか、伝統的な民族意識をずっと持ち続けていたわけですよ。彼等はたいがい自分たちの民族言語とロシア語を操るバイリンガルでした。グルジア人はグルジア語とロシア語、アルメニア人はアルメニア語とロシア語といった風に。ロシア語はロシア帝国の、そして後にソ連の全体の公用語として、共通語として広めていったけど、百年以上も経ってもそれぞれの民族は自分の言葉を失わずに持ちつづけていたわけです。その点はユーゴスラビアも同じです。セルビア人以外の、クロアチア人にせよ、スロベニア人にせよマケドニア人にせよ、自分たちの民族の言葉を持っているわけです。

ソ連という大きな枠の中で当時200もあると言われたいろんな民族がそれぞれ自分たちの言語を持っていた。それがあるとき、その枠組みが突如、崩壊しました。それぞれが分裂していく要素(単位)があって、その単位は何かというと言語集団でした。もっとも、ボスニア人は宗教に基づく民族集団です。ボスニア・ヘルツェゴビナの中のクロアチア人、セルビア人、それにボスニア人というのは同じ人種(民族)です。ただし、セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリック、ボスニア人はムスリムです。同じ人種だけど宗教単位で分裂してしまいました。言語以外の宗教が今もって分裂し、自立する単位になるということは最近のヨーロッパでは珍しいことです。しかし、イラクのスンニー派とシーア派の対立にみられるように、中東、アジア、アフリカでは、宗教が対立軸であることは、決して珍しくありません。

いずれにせよ、言語なり、宗教なり、国民が分裂する単位があって、大きな傘が破れたからそれぞれの単位に分裂していきました。それは長い間、共産党の一党支配の大きな傘のもとに、ソ連人とかユーゴスラヴィア人といった国民アイデンティティが未形成のまま、突如、その虚構が壊れ、そして各々の民族が自分たちだけのもっと小さな、より密な住み家を持ったということです。

-この本の中では「解凍」という言葉を使われていますが、いいえて妙ですね。

 いい表現でしょう。一時凍結してね。両大戦間期には、国際マイノリティ保護制度すらありましたが、マイノリティ保護が、失地回復の口実や侵略の口実に乱用されたことから、第二次世界大戦後の半世紀の間、民族問題は凍結されていました。

-ロシアの寒いイメージと合っていて面白いと思いました。ばらばらになっていく過程の中で起こった内紛は非常に苛烈で、同じ国民であった者同士がなぜここまで残酷になれるんだろうというのが不思議なんですが。  

 いつも差別している側からすれば、差別されている側が反抗を起こして自分たちを襲ってくるのではないかという恐怖心が余計無残で残酷な殺し方をすることになるのだと思います。たとえば、クロアチア人とセルビア人についていえば、第二次世界大戦中、新ドイツ政権の国家を造ったクロアチア人は、ドイツと一緒になってセルビア人をおよそ50万人殺害しているんです。ですから二世代にわたって親は、クロアチア人はとんでもないやつらだよ、と子どもたちに教える。ユーゴスラヴィア政府は、崩壊する直前まで「多民族共生の楽園」を宣伝していましたが、国境内の水面下で民族対立が引き継がれていました。クロアチア人からすると、この前あのようなひどいことをしたので今度は、いつセルビア人に仕返しをされるか分からない、との恐怖心がやはりあるわけですよ。

きっかけは政治の問題です。国が分裂するときに、あるいは民主化の過程で、政治家は政党を立ち上げますが、国民的一体感が成熟していない国では、しかも地理的に民族単位で住んでいる国では、そこで立ち上げられる政党とは国民政党ではなく、民族政党です。クロアチア人何々政党とか、セルビア人何々政党とか。民族単位の政党ができる。そうすると選挙というのは民族対立の場へと一変するのです。対立の場が、戦場から議場に移ったわけです。

武力対立となったとき、お互いに過去の負の歴史のことがあるから、とにかく徹底的に相手をやっつけないと、さもなければ自分たちが殺される、そういった恐怖心があるのでしょう。その意味で惨たらしい殺し方になった。それからよく民族の戦争では、レイプ、強姦が行われます。敵対する民族の女性たちに、俺たちの民族の子どもを産めと。自分たちの民族の子孫を残すという意味で、ボスニア人もセルビア人もクロアチア人も組織的にレイプを行ったという報告があります。民族の戦争にはつきものの悲惨な行為です。国家間の戦争とは違って民族の戦争は惨たらしいものなんです。怨念と恐怖心が織り交ざっているから。

-ジェノサイドはなぜ起こるのでしょうか。

 この点に関して、私が本書で、もう一つ大きな問題提起しているのは、本文で「デモサイド(民衆殺戮)」の表がありましたでしょう。民衆殺戮で殺された人の規模は、ジェノサイドどころではないんです。ジェノサイドは、特定の民族とか、特定の人種であるがゆえに、何々人だからという理由だけで殺すことです。民衆殺戮は、政治的に理由で人民を殺害するか、見殺しにすることを意味します。もちろん、この中にはジェノサイドも含まれています。

ソ連とか中国で発生したのは、圧倒的にジェノサイド以外の民衆殺戮です。つまり自国民の中の抵抗勢力や弱い立場にある農民や労働者の見殺しです。民族の解放、自由と平等、そして反人種主義を唱えてきた社会主義諸国で、なぜこうした惨劇が起こるのかという問題を、私は本書で一貫して謎かけを行っています。この点に関して、一つ面白いことがありました。1946年の第一回の国連の総会の時に、ジェノサイドを「国際刑事犯罪」として規定するような条約の採択を呼びかける総会決議を行っています。ニュールンベルク裁判において、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人ジェノサイドの数々の驚くべき事実が明るみになったので、これは放置できないといったわけです。この決議の中に「政治的」集団の殺害もジェノサイドの定義に入れようとしました。確かに、国連決議にはそう書いてありました。

ところが二年後の1948年のジェノサイド条約が実際に採択されたときには、先ほどの「政治的」という言葉が見当たりません。はずされたからです。なぜかというと、ソ連はすでにドイツの対ユダヤ人ジェノサイドの規模を上回る自国民に対する民衆殺戮を行っていたわけですよ。それは政治的理由からなんです。ドイツの対ユダヤ人ジェノサイドを裁くうちに自分の方に話しが広がってくるとまずいですから、だから一生懸命、他の国々を説得してジェノサイドの定義から「政治的」ということをはずすことに成功したわけです。

それで私は人間の安全保障を考える上で、一番大きな見落としは共産主義の独裁国家が行った民衆殺戮だと考えています。これは皮肉にもドイツのジェノサイドを裁いた連合国にはもちろんソ連が入っています。東京裁判では日本がアジアに行った民衆殺戮は、人道に対する罪として裁かれました。それを裁いたのは連合国であり、その中にはもちろんソ連と中国がいます。もっとも、この中国とは国民党の中国です。実は後から判明したのですが、裁いた国の側での自国の民衆殺戮は、大規模でした。日本は太平洋戦争中に600万人の民衆殺戮を行っていますが、国民党中国は一千万人、その時点でのソ連は4,000万人近くの民衆殺戮を行っているわけですよ。つまりここの話が、これまでの国際政治史にはすっぽり抜け落ちていたわけです。

戦勝国の側のとんでもない民衆殺戮は裁かれずにきたわけです。なぜそういうことが起きたかという問題は、ジェノサイドがなぜ起きたかという問題と関連していますけども、ジェノサイドを含め民衆殺戮はすべて権力が集中した独裁国家でしか起こっていないということです。そう意味で、今になって民主主義がいかに大事なのかという問題に発展していくわけです。

-国際安全保障といったときに今、国家間というよりも民族ごとに安全保障を考えなくてはならないとすると、誰がどういうかたちで安全を保障するのかというのが分からなかったんですが。

国がマイノリティの安全も、また国民全般の安全も保障しない国がまだまだあります。今、身近で一番大きな問題は、北朝鮮問題ですね。私の本には北朝鮮の民衆殺戮166万人説を引用していますが、それは1987年までの数字ですから、それから30年たちますのでもっと増えていることでしょう。北朝鮮の民衆殺戮の規模は、国民の人口比においてカンボジアに次ぐ二十世紀最悪のとんでもない国であることは間違いないです。ですが、この問題は誰も議論していないでしょう。核開発さえ止めてくれたならば、あの抑圧体制の安全を保障し、支援さえしようとしている。「体制の保障」と言っています。つまりアメリカと北朝鮮は和平を結んで、日本は北朝鮮を国家として承認して、それから援助を再開することになります。この前やりかけたでしょう、重油だ、軽水炉の建設だと。その後、拉致問題もあり、6カ国協議での交渉は行き詰まっていますが、だけど協議の争点は、核開発さえやめてくれさえすれば、日本に限って言えば拉致問題の解決がこれに加わりますが、金正日体制を保障し、援助をします。しかし、援助したら、その結果、北朝鮮の国民の安全はどうなるかという問題は誰も問わないですよ。援助したら、国民の安全は保障されるのでしょうか。

「脱北」ということがニュースになるでしょう。脱北とはどういうことでしょうか。みなさんは中国に行こうがアメリカに行こうが、まったく自由です。私などは年に45回海外に行っていますけど、飛行機代さえ払えば短期間ならビサいりません。自由に外国と行き来できるんですよ。我々が海外に出かけることなんか全くニュースにならないでしょう。でも、北朝鮮に限って言えば、無名の人でも、命からがらに出国できたら、そのことだけでニュースになる。これはいったいどういうことでしょうか。出たくても出られない人がいっぱいいるということです。それほどこの国は監獄化しているわけですよ。その体制を我々は承認して支えて行こうというわけだから、それは間接的にではありますが、とんでもない民衆殺戮、あるいは抑圧体制を我々は外部から援助し、支えてこうとしているわけです。

 私がここで一番言いたかったのは、国際平和という問題と人間の安全保障の問題が別次元の国がまだまだあるということです。その別次元の国と国際平和を維持し、友好関係を結ぶということの政治的、道義的な意味を考えねばなりません。

本書では書いていませんが、大学の講義では、学生にいつも問いかけていることがあります。北朝鮮の人民が死のうが殺されようがどうだっていいじゃないか、と思わない限り、核開発さえ止めてくれれば援助しますということ自体が、実は間接的に北朝鮮人民を抑圧する体制を支える加害者の側に立っている。このことに気づかなければ、国際平和の陰で犠牲になっている民衆の悲劇の真相、その国際政治のからくりが見えてこないんではないか、と。

「体制の保障」というのは、人間の安全保障問題と密接に関係している。ミャンマーもそうなんですが、ミャンマーは軍事政権になって十数年の間に50万人近くが殺害されているといわれます。難民の数が100万人です。あの国のこうした問題に、日本はほとんど影響力を行使していないですよ。日本政府はあまりに自重的です。日本がアジアを侵略したことは事実でありますが、その結果、日本が今更自由だとか民主主義とか人権といったことを言うとすぐに反発されるからでしょう。援助している対象は権威主義体制であり、独裁政権であり、これらの非民主的政権は日本の援助のおかげで体制を維持しながら国民を抑圧してきました。その構図を見てみると私たちは友好関係とか開発援助の陰に潜むもう一つの過酷な裏面を見逃してはならない。なぜ、デモサイドやジェノサイドが起こるかという問題は、人間の安全保障を無視した国家間の友好関係とか国際平和の副産物としての問題です。伝統的に平和論の落とし穴です。それを私は主張したかったんです。

-国同士の安全保障ということでは人間の安全は保障されないとすれば、人間の安全保障を実現するためには、そこにたどり着くためには一体何が必要なんでしょうか。

 それは、究極は国際干渉を是とするか非とするかという問題に行き着くと思います。今日、国連では、「人間の安全保障」という言葉からさらに進んで、「保護する責任」という言葉が市民権を得ています。「貧困からの自由」「恐怖からの自由」を軸にする「人間の安全保障」という概念の起源は、この本にも書いていますが、もっと前の19411月のルーズベルトの年頭教書に書かれた「4つの自由」(言論の自由、宗教の自由、貧困からの自由、恐怖からの自由)と、その後、同年8月のチャーチルとルーズベルトが共同で発表した「大西洋憲章」にまで遡ります。

冷戦の終結前は東西両陣営ともに、途上国をそれぞれ自分の味方につけるために援助を行っていました。ところが社会主義が終わって冷戦がなくなると経済援助が急速に減ったんです。それが国連の開発援助の専門機関である国連開発計画(UNDP)は、先進諸国からの援助が激減したことから、なんとか援助を引き出すために「人権」という言葉以上に重みを持つ「安全保障(Security)」という言葉を使ってきたんです。 「人間の安全保障」という言葉を使って、その言葉に先進国に対して援助を出せというメッセージを送ってきたんです。確かに人間が人間らしく生きていけないというのは、貧困問題とともに、もう一つ恐怖政治の下にいる人たちの自由の問題があります。だから、人間の安全保障とは、貧困から人を救いたい、豊かにさせてやりたいということになり、その手法は開発(援助)です。もうひとつ、恐怖から自由にしてやるためにはどうしたらいいでしょうか。

-民主主義ですか。

 独裁体制をつぶし、軍事政権を打倒して民主化するということですよ。援助に関していえば貧しい国は外からの援助を大歓迎します。どうぞよろしくお願いしますって。ところが、恐怖からの自由の問題は、そうはいきません。抑圧体制というものは外部からの干渉を絶対に受付けませんよ。国民を自由にしろということはどういうことか。体制を民主化しなさいということだから受けつけるわけがありません。この問題の究極の解決法は、民主化だ、自由化だと言ったって、独裁体制は絶対に民主化しませんよ。独裁体制の側は、国際的孤立を恐れ、そして国際的制裁が予想されるだけに、それが分かっているから核開発するわけです。

 そういう意味で、人間の安全を保障する上で、その解決法は二つあって、貧困を救うには援助国も被援助国も協力して、中長期的に時間はかかるけれどもある程度国が経済発展すれば豊かになれる。しかし、「恐怖からの自由」の問題、すなわち囚われの身の人たちの自由の問題は、瞬間的に解決できるんです。解放すればいいんだから。ただ、その瞬間がいつ来るのか、そこにもっていくプロセスが難しい。

 人を自由にするという問題は政府が抑圧・弾圧をやめれば瞬時にして解決するわけですが、そこに到達するのが大変です。では、どうやったらいいのか。今まではイソップ寓話「北風と太陽」の論法で、その国に太陽として援助を送っていったんです。ホカホカあっためていったら自分でマントを脱ぐだろうというような発想が支配的でした。しかし、今まで、北朝鮮には重油をくれというから重油を、発電所をくれというから発電所を、食料も衣料品も援助していったのですが、一向に変わらないでしょう。つまりイソップの太陽説の効果がないとすれば、他にどのような手法が考えられるのか。

アフガニスタンとイラクに対して、武力行使が行われました。アフガニスタンの原理主義のタリバーン政権を、そしてサダム・フセインの独裁体制を武力で崩壊させました。しかし、これら両国で、民主化移行できないんですよね。独裁体制を壊しても、民主化移行に成功するとは限らない典型的な例です。民主化がうまくいかない例を我々はまざまざ見せつけられました。

北朝鮮の場合は民主化できますよ。イラクやアフガンみたいにならないでしょう。なぜかというと民族がひとつですから。民主化過程においてイラクやアフガンみたいに民族紛争・対立に発展しようがないんです。しかし、金正日体制を民主化させていこうにも、太陽は効かない。北風はどうか。では武力行使はどうか。北朝鮮と戦争をしてまであの国を救う必要があるのか。戦争をしたら韓国の側も相当程度、傷付きますよ、大きな犠牲者が出ますよ。そこまで危険を冒してよその国の人民を救うことはないではないかというコストの問題に加えて、武力行使してはならないという国際規範の問題もありますね。となってきたら、さっき言いましたように結果的には、見たこともない人たちの惨劇は、どうだっていいじゃないかと諦めるしかないのでしょうかね。

-結局、ああいった国家体制の国だとまた同じ体制が続いてしまうんではないかという危惧があります。韓国で朴大統領が暗殺された後、全斗煥、盧泰愚と軍人政権が続きましたよね。

 北朝鮮でクーデターが起こった場合、あの国は民主化する可能性が高いと思います。平壌100万人以外の地方の窮状をみんな知っているわけです。言えないだけで、おかしいというのは分かっている。やはりボスがいなくなったらルーマニアと同じように軍部と政府の指導部が分裂して、そしてその時に民衆の側につかないと次の政権をやっていけないというのはみんなわかっていますから、民衆のことを考える勢力が絶対に勝ち残ります。しかしそれはいつになるかわからないね。今晩か5年先か、10年先か。

-韓国が介入する可能性は。

 それはない。ソウルは南北国境から直線距離で40キロから50キロに位置します。もし韓国が入っていこうとしたら、ソウルに北側からにミサイルが飛んできます。ソウルは人質に取られているようなものです。韓国は絶対手出しできない。

-これから日本人ができることは何なのでしょうか。先生が学生に教えられるときに一体何を学生にして欲しいということなんでしょうか。

 私は、本書を通して、人民が一人前の国民になるプロセスを、戦争および戦後処理の問題との関連で描いています。人の強制移住、国境線の再線引き、同化、そして民族浄化など、西欧諸国の非人道的な国民統合の一面を書いています。第一次世界大戦までは、国境をまたぐのにビザとかパスポートは不要でした。よその国に自由に出入りできたんですよ。パスポート制度ができてビザ、すなわち入国許可証ができてきて、やがて国境を越える自由な出入りができなくなってしまいました。

つまり、この100年ほどの間に人間はどこかの国に帰属しているという意識、同じ言葉を話す人間は国民だという国民意識を共有する国民国家を作っていきました。この100年の間に国民意識が醸成され、そしていつの間にか誰かどこかの国に帰属する。そして、他方では、我々はいつの間にか人種とか民族とか国民とかという帰属意識、アイデンティティを持ち始めて、自分と他者を区別していくようになり、他人は他人、自分は自分と考えるようになりました。今の国際政治というのは依然として国益をめぐる国際関係でしょう。国益のぶつかり合い、国益を確保するための。

言い換えると他者は、外国人はどうだってよい、何より自分、自分の国民が大事だという意識はおそらく程度の差こそあれ、どこの国民もみんな持っているんですね。人種意識とか民族意識とかという問題も長い間にいつの間にか心の中に育まれました。同時に人種とか民族とか国民という視点からものを考えているから対立がなかなか解決されないし、自分のために他者を犠牲にするということもいつまでも続く。そのことを私は現代の歴史を通して考えてみたかったんです。

そこから先をどう考えるか、私は強要できないけれども、安全保障の歴史を学び、国際平和と人間の安全は必ずしも両立しないこと、国益を越え、国境を越え、民族を越えて、弱者に対するいたわりとか、同情とか、理解という方向に発展していって欲しいなと思っています。

-本日は長い時間にわたりありがとうございました。

民族自決の果てに- マイノリティをめぐる国際安全保障

吉川元著 有信堂高文社刊 3,150円(税込)
産業革命、2つの世界大戦、冷戦。国際政治の転換期には、必ずマイノリティをめぐる国家間の相克があった! 国際の安全、国家の安全、人間の安全という3つの視点から、国際安全保障のすがたを描き出す。

吉川元先生 主要著書一覧

著書

ソ連反体制運動の展開――ソ連人権問題の国際化 (広島修道大学総合研究所 1983年)
ソ連ブロックの崩壊国際主義、民族主義、そして人権
 (有信堂高文社 1992年)
ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)――人権の国際化から民主化支援への発展過程の考察 (三嶺書房 1994年)
国際安全保障論戦争と平和、そして人間の安全保障の軌跡
 (有斐閣 2007年)
民族自決の果てにマイノリティをめぐる国際安全保障
 (有信堂高文社 2009年)

編著・共編著

予防外交  (三嶺書房 2000年)
国際関係論を超えてトランスナショナル関係論の新次元
 (山川出版社 2003年)
なぜ核はなくならないのか-核兵器と国際関係
 (法律文化社 2000年)
マイノリティの国際政治学
 (有信堂高文社 2000年)
国際政治の行方グローバル化とウェストファリア体制の変容
 (ナカニシヤ出版 2004年)

翻訳

パンダモニアム 国際政治のなかのエスニシティ  ダニエル P・モイニハン  (三嶺書房1996年)

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