ジェイン・オースティンの読書会 特集

ジェイン・オースティンの読書会 特集

『ジェイン・オースティンの読書会』
4月12日(土)より
Bunkamuraル・シネマ他
全国順次ロードショー
(c)2007 Sony Pictures Entertainment Inc.
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ジェイン・オースティンとは

今も世界中で愛されているジェイン・オースティン
1775年12月16日~1817年7月18日

ジェイン・オースティンのウィットと風刺に富んだエレガントなスタイルのフィクションは、英文学における、18世紀の新古典主義から19世紀のロマン主義への転換点となった。

ジェインは、1775年12月、ハンプシャー州ベイジングストーク近郊のスティーヴントンという村の牧師宅で生まれた。8人の子供の7番目として、ジョージ・オースティン牧師とその妻カサンドラの間に生まれたジェインは、主に家で教育を受け、一度も家族と離れて暮らすことはなかった。

最初の小説「Love and Friendship」を書いたのは14歳の時で、その後も「A History of England」など、興味深い秀作を書いている。20代前半に書いた小説に後年手を入れて出版されたのが、「分別と多感」、「自負と偏見」、「ノーサンガー・アピー」だった。その他に「The Watsons」という小説も書き始めたが、これは完成を見ずに終わった。

若い頃のジェインはダンスが好きで、近所の邸宅で開かれた多くの舞踏会に参加した。田園風景も好きで、長時間の散歩を楽しみ、ハンプシャー州には多くの友人もいた。そのため、1801年に両親が突然バースに引っ越すと言い出した時、ジェインはかなりのショックを受けた。オースティン牧師は、スティーヴントンの牧師館を息子ジェームズに譲って引退し、妻と2人の娘を伴ってバースに移った。その後の4年間はジェインにとって辛いものだった。あわただしく狭くるしい街の生活を嫌った彼女は、スティーヴントンの生活を懐かしんだ。1805年に父親が亡くなった後は、未亡人と娘たちは経済的にも苦境に陥り、息子たいの好意にすがることになる。また、この頃、英国西部での休暇中に知り合い、愛した男性が死亡したことでジェインは深い悲しみを味わう。その後に、親しい友人達の兄で裕福な地主からプロポーズを承諾するが、その翌朝、気が変わる。そのことでもまた大いに心を乱す。

オースティン氏の死後、女性たちはサザンプトンへ移り、海軍に属していたジェインの兄フランクとその妻メリーの家へ身を寄せる。また、時折ロンドンへ行き、ジェインの一番のお気に入りで、銀行家として成功していた兄ヘンリーの家に泊まることもあった。バースではほとんど小説を書くこともなく、サザンプトンでは一切書かなかった。

1809年7月、兄エドワードの申し出により、母と2人の姉妹はチョートンにある彼の敷地内に終の棲家を得る。こうして彼女たちは愛するハンプシャーの田園地帯へと戻った。住まいは小さいが、綺麗な庭のある住み心地の良い家だった。何よりも、ジェインが執筆するのに必要な、落ち着いた環境を提供してくれた。この家で暮らした7年半の間に、「分別と多感」と「自負と偏見」に手を加え、1811年と1813年に出版し、それ以後次々と作品を書いた。1814年には「マンスフィールド・パーク」、1816年には「エマ」を発表し、「説得」を書き上げた。「説得」は彼女が亡くなった翌年、「ノーサンガー・アピー」と共に出版された。彼女の生前に出版された作品はすべて匿名で、”By a Lady”として出された。1816年冬、「Sanditon」という作品に取り掛かったが、体調を崩したため未完に終わった。

ジェインはアジソン病を患っていた。長い距離を歩くことができなくなった彼女は、ロバの引く小さな馬車に乗って出かけた。この馬車はチョートンにあるジェイン・オースティン・ミュージアムに今でも展示されている。1817年7月18日、ジェイン・オースティンは姉カサンドラの腕の中で息を引き取った。享年41歳。ウィンチェスター大聖堂に葬られている。