その日のまえに特集大林宣彦監督インタビュー
滂沱の涙で泣きじゃくりながら読んでいた
-原作との出会いのシーンを教えてください。 本作品のプロデューサーの妻(大林恭子)とは、50年一緒に映画を作っていて、だいたい本は彼女が読むんです。ある日、「この本を読んでみたら」と渡してくれて、新幹線の中で読みました。 そうしたら、何か気配が変なんです。みんなが僕を見ているんです。なんで全員が僕の方を見ているんだろうと思ったら、滂沱の涙で泣きじゃくりながら読んでいたらしいんですね。これは不思議な、珍なる光景であったでしょうね。 それは原作の持っている世界に感動しただけではなくて、多分私がそこまで感情移入して泣いたのは、「ああ、俺の映画に出会った」と非常に強く感じたからで、一行一行自分の映画のようにずっと読み進んでいました。 -重松さんの小説は前々から読まれていたんですか。 重松さんの小説を読んだのは実はこれが初めてでしたので、まず重松清の世界に感動したということが強かった。「こういう作家がいたのか、こういう言語を使って小説を書く人がいたのか」という喜び。映像が目に浮かぶ小説というのがたくさんありますが、そういう作品を読むのも嫌いだし映画にしようとも思わないんです。 そういうものに出会っちゃったわけです。重松清という作家に -小説と映画の表現法の決定的な違いというのは。 重松さんの原作には「半透明の人間」というのがたくさん出てきます。「駅長君」などがそうです。なぜ半透明かというと、過去の子どもが出てくるわけで、登場人物の幻覚か、幻想か、あるいはお化けか、とにかくこの世にいないから半透明で描くわけです。 これはあくまでも文学の世界の問題です。というのは、文学は映像がないですから、文学的手法として「半透明」と書くことによって死人とも生きている人とも分からない人を描いているんです。 こういう小説を気軽にテレビドラマや映画にすると、文字通り半透明の人間を出してしまうんです。映像で半透明の人間を出すと、それだったら始めからお化けならお化けだと決めているようなものです。「駅長君」はいたと作者は信じているわけで、少なくとも登場人物が「駅長君」を見たということの確固たる存在感を描くために小説では半透明で描いているわけだから、映画にする場合はぼかす必要も半透明にする必要もなく、確固たる人物として描けばいいと思います。 むしろ、そのときに仮に半透明にするとしたら、この現実世界に生きているといいながら死人に近い生き方をしていた人間こそ半透明に描く、というのが映画の世界です。映画世界というのは言語世界を文字通り描いたのでは真の映画世界にならないんです。だから、やはりそれに対峙できる小説というのは、純文学、歴史的な名作しかなかなかありえないというのが現実なんですが、そういうものに出会っちゃったわけです。重松清という作家に。そのことに感動がありましたね。 重松さんの言葉がチャーミングでした
定価:¥5040(税込) DVD発売中 DVD発売中 -重松さんとはどのような出会いがありましたか。 たまたま重松さんとは原作を読んだ1週間ぐらい前にNHKの「昭和の映像」という番組に共に出演していたんです。それが初対面でした。 そのときは、「あ、なかなかこの人チャーミングな人だな」と思いました。それから、たまたま重松さんの小説を読んで、「そういう作家であったか。これは映画にしなきゃ」というオーバーでもなんでもなく、言わば運命的出会いであったことにも感動していました。その証拠に、読んでからすぐに原稿用紙にその思いを書き付けて、重松さんの事務所がうちの筋向いだったので、そこに切手も貼らずポストに入れてきました。 15、6年前だと、こういう小説を映画にしたいと思ったら必ずできたんです。今は、最初から映画化権、ドラマ化権が売られていて、なかなか私の手に新しい小説は入ってこないんですよね。だからとにかく早く思いだけは伝えておこうと。 1ヵ月ぐらいたって、お会いしましょうと連絡があり、会ってみたら、実は重松さんは『転校生』などの昔からの僕の映画が大好きで、小林聡美の大ファンで、大変喜んでくださっていました。しかも、NHKの番組が初対面ではなく、彼が雑誌の記者をやっていらした頃、手塚治虫の取材で長々と話をしたことがありました。その記憶は僕にもあるんですよ。つまり、お互いの中に手塚治虫というとても大切な作家がいて、その影響も受けて育った人間同士として話をした。そのときは重松さんが手塚治虫の話なら大林としようというのでうちに来てくださっていたという、そういうつながりも確認できました。 そのときの重松さんの言葉がチャーミングでしたね。「僕は小説家として、『その日のまえに』という想が浮かんで小説を書き上げることができました。おかげで多くの読者に読んでいただいて、みなさん喜んでくださった。だから僕の仕事としては『その日のまえに』はもう終わっています。だから、大林さんが映画にされるならそれは大林さんの仕事です。どうぞふんだんに、ご自由にお作りになってください。でも、今すぐお作りになると、原作人気に負ぶさっているようで大林さんも癪でしょう。それは本意じゃないでしょう。3年ぐらいしてから、お作りになりませんか。3年経てば皆さん忘れているし。大林さんも覚えてくださっていたら3年後にお作りになりませんか」と。 確かに8社からオファーがあったということは原作人気に負ぶさっているに違いないわけだし。そこで私が作れば同じように思われてしまうし。私はそうじゃない監督だということを重松さんもはっきり理解してくださったので、出版社の了解も得て、いわば、プライベートな形で約束をしたわけです。僕のところに・・・とお思いになったのは「大林さんだったら原作に込めた想いが映画になるかな」と期待してくださっていたんだろうと思います。 その後、僕は『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』『転校生 さよならあなた』という2本の映画を作り、今年になって「そろそろ約束だから、やっぱりあの映画を作らなきゃいかんな」、という時期がやって来ました。今年で僕も70歳、古希です。これは結果論としては非常によくて、恐らく三年前、67歳で作っていたらまったく別の映画を作っていたと思います。70歳になって初めて、今度の映画のような形にできたな、と。丁度いいところにこの映画が着地をしたんです。 70歳になって初めて、今度の映画のような形にできた -70歳で丁度よかったというのは 僕たちは人生50年と言われて育った世代なんです。僕が子どもだった頃、まわりの兄さん、おじさんたちや、もちろん親たちも戦争に取られました。あのころの小学生はみんな、僕たちは戦争に行って21歳で死ぬ運命にあると認識していたんです。現実に、一緒にキャッチボールをして遊んでくれたお兄さんたちは戦争に行って、皆、遺骨になって帰ってきましたから、僕もそうなるんだなと。 それがいつの間にか戦争が終わって、25歳になったときに一生半分生きたかなと思った記憶だけがあり、50歳になったときはまだ生きていると、思いましたが、そのときは平均年齢が伸びてきているし、25歳からは戦後の高度経済成長時代の中で自分の創作活動を謳歌していましたから、そんなこともどこかにふっ飛んでいきました。 でも、60歳になった時はちょっと恐かったです。僕らの先輩の小津安二郎、子どもの頃から親しんできたお兄さんの手塚治虫、僕が始めてシナリオを書いた、『花筺(はなかたみ)』の檀一雄、皆さん60歳で或いはその3、4年内に死んでいるんです。それを通り越して生きるというのは恐ろしかったです。でも、そうは言っても生きているから、生きて映画を作っていたんですね。 俺は生きてていいの。生きているってことは何だ 70歳を迎えますと、さすがにそうは長閑に言っていられなかったですね。しかもその間に熊井啓、黒木和雄、今村昌平という、ちょっと年上の兄貴たちが、皆さん死んでいく。しかも僕の弟のような相米慎二や市川準という人たちまでが50代で死んでいく。「俺は生きてていいの。生きているってことは何だ」って、思うわけですよね。 それで、戦没学徒の手記を読んだり、長野県にある戦没学徒の美術館「無言館」などにさかんに行きました。20歳とは思えないほど美しい日本語で自己表現をしている手記や、僕の大好きなゴッホやゴーギャンの絵にも劣らない見事な絵を見ますと「俺、彼等ほど美しく生きてきたかな。ずいぶんずぼらに、だらしなく、生きているということで生きてきただけじゃないかな。非常に申し訳ない。自分の人生、もう一遍、この50年やり直したいな。そうしたら、もっときちんと生きて見せるんだけどな」と思ったんです。 同時に「俺がこれまで作ってきた映画も本当に映画を作ったか、映画の姿をしたものしか作ってこなかったんじゃないか。いけねえ。申し訳ないことをした。自分の人生も無駄遣いしちゃった。これから俺は本当に生きているように生きよう、映画らしい映画と言えるものを作らなきゃいかん」と殊勝なことに決意を新たにしたわけです。そこにこの原作と出会って、60代のときには見えなかった世界が見えて来たんです。 [PR]ピックアップサイト |